CAI

Yuya Suzuki | Intermediate インターミディエート

Intermediate

会期 2022年1月13日(木) – 2月12日(土)
休館日 日曜・月曜・祝日
時間 13:00 – 19:00
会場 CAI03 札幌市中央区南14条西6丁目6-3
主催 CAI現代芸術研究所/CAI03
企画 佐野由美子
助成 公益財団法人小笠原敏晶記念財団
協力 さっぽろ天神山アートスタジオ

展覧会動画

展示ドキュメント

 

 
 
インターミディエイト(しかし、何と何の?)
 
長谷川新(インディペンデントキュレーター)
 
 
展示風景 Intermediate/CAI03 /photo 小牧寿里 

 

私たちは「茶碗むしのもと」を電子レンジに入れてチンしたから当然結果的に茶碗むしができたって思っている。だけどそれはただのスイソクに過ぎないと私は思う。私はむしろ、「茶碗むしのもと」を入れてチンしてふたを開けたらたまにマカロニ・グラタンが出てくる、なんていう方がほっとしちゃうのね。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 〈第3部〉―鳥刺し男編

 

α

生活臭漂う話で恐縮だが、乾燥機付きの洗濯機を買った。大変な出費である。早速、流線形の白いボックスのなかに洗濯物を放り込んで、スイッチを押す。洗剤はタンクに入れておけば自動で計量してくれるそうなのだが(なんならスマートフォンで遠隔操作もできる)、まだ個包装の洗剤がだいぶ残っているので、ひとまずそれを使うことにする。音がしない。動いているのかと丸いガラス面を覗き込むと衣類やタオルがグルングルンと振り回されている。不安になる程静かだが、ちゃんと動いているらしい。数時間後、ほかほかに熱せられた衣類を取り出す。触れ込みどおり、シワが全く入っていない。恐るべし家電の進化。洗濯物を畳んでいくと、2015年秋に買ったお気に入りの黒いニットの上着が二回りほど縮んでいた。次の次の洗濯の際は、ブレーカーが落ちた。どれだけ性能が良くなろうと、無音でことが進もうと、服は縮む。そして、乾燥機は消費電力がすごい。

 

β

コロナ禍の札幌にて、抽象でミニマルな展示を観た。10年に一度と言われる豪雪に見舞われたものの、奇跡的に来札中は晴天に恵まれた(滑って転んでiPhoneの画面は粉々になったが)。階段を降りたところにある展示室は6つの小部屋に分かれていて、それぞれ着色された光源で均一に照らされている。その中に抽象的な物体がひっそりと佇んでおり、いくつかは、注意すれば気づく程度の遅さで回転している。ごく稀に、音が鳴るものもある。物体はいずれも工業製品のような精巧なつくりで、流線形の曲面は人の手によるものとは思えないほど見事に処理されている。上階の受付を兼ねたスペースには色鉛筆で各面が塗りつぶされたドローイングが額装で展示されていて、どうやらその二次元の抽象的な形態と、階下の抽象的な三次元の物体には何らかの関係が結ばれていることがわかる。これらが一体何なのか、鈴木はその出自については特に隠し立てるようなことはしていない。

 

展示風景 Intermediate/CAI03 /photo 小牧寿里 

 

鈴木はまず都市を徘徊し、観察し、そこで見つけたイメージや事物を具体的な断片として写真に記録する。撮り溜めた写真はさらに観察され、ドローイングに起こされる。さらにそのドローイングが元となって、三次元の物体が制作される。扱うメディウム-素材が転換するたびに、元あった事物は抽象化される。だが情報が縮減していると簡単に言ってしまうことはできない。それはもちろん鈴木の意志が介在しているということでもあるが、他方で、それぞれのメディウム-素材が備えている物理的特性に引っ張られながら形成されていくということでもある。単純な例を挙げるが、下部よりも上部が大きい図があるとして、それを三次元で起こそうとすると、重力によってふらつき、自立しない。少なくない彫刻がそうした形と重力と重心についてのバランスーー困難な条件下で、それでもなお自立していることーーを賭金としているように、鈴木の制作する物体も物理的な諸条件を鑑みられた痕跡がみられる。鈴木はそれを都市の無意識の描出だとする。個々のイメージは元あったソースが何だったのかを窺い知ることは全くできず、あまつさえその都市がベルリンなのか、台北なのか、札幌なのかもわからないほど抽象化されている。最終的にそれはずっと前からそのように存在していたであろう生き物のようにーーグレッグ・イーガンのSFに出てくる、海底に棲息する単細胞生物のコロニーが偶然生み出してしまった仮想現実に生きるイカのようにーー存在の権利を保持しているように見える。逆に言えば、来歴と全く無関係に自律した閉鎖系のように見える。ゆっくりと変わるライティングのプロジェクターも、回転するように組まれたモーターも、彼らの自律性を補強するために導入されている。

 

展示風景 Intermediate/CAI03 /photo 小牧寿里 

γ

 

コロナウィルスは、2020年9月にイギリスで発見されたアルファ株から始まり、ベータ、ガンマ、デルタ、イプシロンと変異を続けていった。鑑賞時に札幌で増殖を続けていたのは、オミクロン株である(2021年11月にアフリカで発見)。形態は本当に変化し続ける。その都度場当たり的にギリシア文字をあてがうことで剥き出しになるのは、いずれウィルスはオメガ株に変異し、それでも止まらずーーもちろん止まってくれないーー変化し続けるはずだという予測である。そしてこの変化には終着地はない。「行けるところまで行く」ことを、「変われる限り変わる」ことを、一種の倫理とするかのような振る舞いである。安易に同時代性で鈴木の作品を語ろうというのではない。考えたいのは、インターミディエートについてである。

インターミディエート、中間体、ある2項の間にある移行状態のもの。こうした建て付けは、無論、固着した既成概念や、普段意識外に追いやられているイメージの肌理を前傾化させるためのものであろう。現実とフィクション、意識と無意識、どちらの側にも属さないような不安定で不定形の何かが、なぜか、輪郭をもつ物理的存在として展示空間に現前している。鈴木はそこに賭けている。三次元化したオブジェクトから個体特定が可能な要素を剥がし、どうとでもとれるようなタイトルを与えることで、慎重にトレーサビリティを奪っている。鑑賞者の前にあるのは、ジオタグとは無縁の、自律し、物理空間の諸条件と折り合いをつけてたたずむイメージである。

 

展示風景 Intermediate/CAI03 /photo 小牧寿里 

さて、ここまで手数がかけられた本展のタイトルが「インターミディエイト」であるとして、しかし、何と何のインターミディエイトなのだろう。イメージは2項の間を揺れ、宙吊りになっているーー両サイドにある2項は不変だと言わんばかりだーーというよりもむしろ、常にすでに別の場所と時間に向かって流れ出している。今この瞬間も。これからミディエイトするかもしれない未然の対象ごと生み出していくように。かつてその一部であった都市さえも書き換えてしまうように。鑑賞者と、制作者と、作品とが、変化することについては同等の権利があるとみなしたところから始まる制作。鈴木の仕事に潜勢しているのはそのような沸き立つ抽象とミニマリズムである。

 

展示風景 Intermediate/CAI03 /photo 小牧寿里 

 

 

鈴木悠哉

1983年福島市生まれ。2020年3月より文化庁新進芸術家海外研修制度によってクンストラーハウス・ベタニエン(ベルリン)に滞在、現在ドイツと日本、および東アジアを中心に活動を行う。都市を集合的無意識の集積と捉え、都市風景の断片から独自に記号的なイメージを抽出し、ドローイング、ペインティング、立体、映像など様々なメディアに転換、インスタレーションという形態を通じて現実世界を独自の視点でシミュレーションする。

Yuya Suzuki (b. Fukushima, Japan, 1983)

Considering the city as an accumulation of the collective unconscious, he extracts symbolic images from fragments of the urban landscape and transforms them into various media such as drawing, painting, sculpture, and video, and simulates the real world from his own perspective through the form of installations.

 

主な個展
2021 「Post Language Realm」クンストラーハウス・ベタニエン (ベルリン)
2020 「archegraph study_Berlin」Migrant Bird Space (ベルリン)
2019 「Phantoms Agora」蕭壠児童美術館, (台南)
2019 「New Excavation」木木藝術(台南)
2019 「Futuristic Allegory」Migrant Bird Space (北京)
2018 「City under the water」Center for Contemporary Art (崑山市)
2018 「archegraph study_Tainan」絶対空間 (台南)
2017 「Remaking Ghosts」蕭壠文化園區(台南)
2017 「archegraph stdy_Seoul」salon cojica(札幌)
2016 「walk and cultivation」CAI02, salon cojica (札幌) 

主なグループ展
2021 「東京特快」AN+Art & Design Center (深圳)
2020 「Unnamed Reality」在地文化 (広州)
2019 「さっぽろアートステージ2019」SCARTS(札幌)
2019 「BENIZAKURA ARTANNUAL 2019」紅桜公園 (札幌)
2019 「接ぎ木展」なえぼのアートスタジオ, Art space + Café Barrack (札幌/ 瀬戸)
2016 「アッセンブリッジナゴヤ2016」名港地区 (名古屋)
2014 「Becaming Undone」 Kleiner salon (ベルリン)
2013 「Jeune creation 2013」 サンキャトル (パリ)
2012 「The last one before the break」Duende (ロッテルダム)

 

 
 

CAI03では鈴木悠哉による個展「Intermediate (インターミディエート)」を開催します。
鈴木はこれまでの制作において、都市を集合的な無意識の集積と捉え、そこに見出されるカタチや構造をドローイングのプロセスを通じて独自の記号として抽出するシリーズ「アーキグラフ・スタディ」の制作をヨーロッパや東アジアの都市を中心に展開、また近年の制作においてそれらの記号的なイメージはさらに立体や映像、または広告看板の形態やマルチプルといった様々な媒体に転換され、インスタレーションという形態を通じて現実世界に関する独自のシミュレーションを提示してきました今回CAI03での展示に於いては、「インターミディエート」をキーワードとして、もともとはアパートとして使われていた6つの小部屋の建築的な構造や特色をもとに制作されたインスタレーション作品の展示を行います。インターミディエートとは中間体という意味を示し、ある状態が最終的な状態に移行するあいだの中間の状態、あるいはそこで生じる反応のことを示します鈴木はインスタレーションの展示空間を現実とフィクション、あるいは意識と無意識との間の中間体であると見立てます。鈴木によって独自に記号化された都市の断片的なイメージは、親密さを伴いながらも具体的な事物や意味に結びつかないまま鑑賞者の内部で遊離し続けます。それらのイメージが立体物として再び現実に存在するときに、現実とフィクション、そのどちらでもない中間的な領域が浮かび上がってきます。そのことは同時に現実の捉え方を静かに揺さぶるものです。

 


In his works, Suzuki has developed a series of “archegraph studies” in which he considers the city as an accumulation of the collective unconscious and extracts the shapes and structures found there as his unique symbols through the process of drawing, mainly in European and East Asian cities. In recent years, these symbolic images have been transformed into various media such as three-dimensional, video, advertising signage, and multiples, and through the form of installations, he has presented his simulation of the real world. In this exhibition at CAI03, with “Intermediate” as the keyword, he will present an installation work based on the architectural structure and features of six small rooms that were originally used as apartments.

 The word “intermediate” means an intermediate state between a certain state and the final state or a reaction that occurs there. Suzuki considers the exhibition space of his installations as an intermediate between reality and fiction, or between consciousness and unconsciousness. The fragmentary images of the city, symbolized by Suzuki in his unique way, continue to dissociate in the viewer’s inner without being connected to a concrete object or meaning, even though they are accompanied by a sense of familiarity. When these images exist in reality again as three-dimensional objects, a realm that is neither reality nor fiction, but an intermediate realm, emerges. At the same time, this quietly shakes the way we perceive our reality.